本の魔法 ~『風立ちぬ』(堀 辰雄)に寄せて~
小山 可奈子(文学研究科 社会学専攻)
“風立ちぬ、いざ生きめやも”
この言葉に出会った時、私は埃だらけの本棚の間にしか居場所を見つけられない子供だった。毎日が息苦しくて、まるで鎧のように重い制服を脱ぐ日が来るのを心待ちにしながら、教室(牢獄)から出させてくれるチャイムに耳を澄ませていた。そんな私にとって、一日中陽の当たらない黴のにおいのする全集の本棚は、唯一一人になれる格好の場所だった。退屈を埋めるためだけに読んでいたなかで出逢った、詩句のようなその一節は、私を窮屈な毎日から抜け出させてくれるのに十分な力を持っていた。
主人公と、不治の病を抱えた彼の恋人の節子。サナトリウムでの二人の生活は、交わす言葉こそ少ないものの、とりわけ珍しくもないごく平凡なものだった。見つめあったり、花を見たり、景色を眺めたり。「皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっている愉しさ」を時の一粒一粒のかけらから探し出す毎日。ビーズを糸に通すように、昭和初期の一年をやってこない未来の分まで一日一日をいとおしみながら生きていた。その愉しさを見つける日々は、節子の病状が悪化していくのにともなって、やがて『死』の闇に覆われていく。
死に神が足音を立てて近づいてくるのが分かるその日々は、死への恐怖でおびえたものであるはずだった。しかし二人の過ごす時間はとても静かで穏やかで、のちに二人を待ち受ける運命を微塵も感じさせなかった。「生きること」の意味、そして「愛」の存在を、私はそこから見出そうとしていた。
あれから七年たった今、また違う視点で、私は二人を見つめることができる。あの頃の私の中で、汚すことのできないほど揺るぎなく完璧であった二人の愛の形に、ほんの少しの疑問形をもって…。七年前の私は、死を通して生を見つめようとした節子の気持ちになって、狂おしいほどの切なさと共に二人を見守っていた。「いくぶん死の味のする幸福」の意味、二人の綴った「愉しさ」のなかで、青白い肌や喀血を隠し、大切な家族や恋人を残して生涯を閉じねばならない節子の悲しみを思った。
でも、今の私なら、彼女の恋人であった主人公の、節子にぶつけきれなかった独りよがりな愛情や、「恋人」に徹しきれなかった彼の人間としての未熟さを見て取ることができる。
残された者の哀しみや死の意味を納得しなければならないやりきれなさに、何より思いを馳せる。そしてそれでも前へ進もうとする主人公の姿を通して、悲しみを癒して生への希望へとつなげた、節子の優しい愛情を感じることができるのだ。
七年という歳月は、私にとって神聖なものであった二人の物語に、五感で感じ取ることのできる、「肌なじみのいい、ほろ苦さ」を加えてくれた。ただ、それは決して過去の私が感じた「愛」を否定するものではなくて、誰もが未完成であるけれどそんななかでお互いを補い合いながら生きている、良い意味での人間臭さなのであろう。
“風が吹いた、さあ生きよう”
きっとこれはそんな意味なのだろう。ささいなことにはっとして、心を震わせる小さな感動。節子を亡くした哀しみを抱きしめながら、日常の小さな出来事のなかにさえ、生きる意味を見出して生きていこうとした主人公の心の掛け声のようなもの。でもその掛け声は、本の間でしか生きられない、まさに〈本の虫〉だった七年前の私に、窮屈な毎日から抜け出す鍵をくれた。能動的に生きるということ、そして、痛みや弱さも全部抱えながら、それでも前を見て生きるということ――。たぶんその一節は、この先もずっと変わらずに私の心に希望の風をくれる言葉であり続けるのだ。
モノクロのスケッチもそれはそれで素敵だけれど、同じ景色を、時に油彩やガッシュや水彩で、また写真のようにも高画質で見ることができたら、それはとても魅力的なことに違いない。私にとっての「一冊」は、開くたびに新しく鮮やかな感動と、物事を見抜くための多角的なチャンネルをくれる。でもそれは手元にあるようで、実は幾数年もの時を超えてようやく巡り会えた、遠い過去の言葉である。その物語や言葉を愛した人、残そうとしてきた人たちによって次の世代に受け継がれ……そんな奇跡の積み重ねでここまで運ばれてきた。その運命的な一冊が、ひとを動かす力になるのだとしたら、それは本の持つ魔法なのではないだろうか―――?